生涯スポーツとしてのシニア射撃競技 ; 香西 俊輔

これからもう20年近く前の話であるが、全米選手権(キャンプ・ペリー)に参加した。50mは3姿勢120発の2ラウンドマッチ、伏射160発の4ラウンドマッチが実施される。どちらも前半はマイクロサイト、後半はエニーサイトで競技される。伏射の前半2日間、私はマイクロサイトで両日とも1600点満点中1596点であった。後半に入りスコープをつけると1600点であった。その日たまたま隣の射座に入った射手も満点を記録した。その射手は70歳であった。このとき私は生涯スポーツ、それもコンペティティブなスポーツとしての射撃の存在を強く意識した次第である。

射撃は老若男女等しく楽しめるスポーツであるといわれるがそれは本当ではないと私は思っている。一例をあげれば、20歳台で580点のエアー・ライフルを撃ち、50歳になって540点しか撃てなくなった場合、そこには楽しみなど残っているとは思えないからである。更には社会的コンセンサスとしてエアー・ライフルは若者の種目で得点の低下に年齢という免罪符が与えられている。これではちょっと面白くない。

年齢が体に与えるハンディは実は小さくない。筋力、持久力、反応時間、視力、集中力のどれを見ても20歳と50歳の絶対能力は比較しようもない。すなわち、基本的な身体能力として射撃のスポーツ性を成立させるファンダメンタルズはシニア射手にとって既にピークからかけ離れた所にあるのである。

この年代のスポーツでは安全性がとりわけ重要視されて当然であるが、射撃では得てして拡大解釈される。身体能力の低下はある種の“あきらめ”をともなって解釈されていることは事実であろう。“あきらめ”をもったスポーツ行動は心身ともに安全であるがその分達成感に乏しい。この“あきらめ”の源は『自己が何を行っているか認識できない』点にある。すなわち、運動能力の低下によるコーディネーションの欠落および視力低下による視認性の悪さがパーフォーマンスのエラーをすべて正当化する。

射撃のスポーツ性は『勝利』することと等しく重要な『挑戦性』にあると思われる。勝利は無差別な勝負であり、挑戦は自己のなかでの勝負である。自己の中での勝敗は言うまでも無くパーフォーマンスに対する認識に基づいている。射撃のシニア種目は40代後半からもやもやしていた自己に対する評価を明らかにする道具を提供する。

スコープの使用は50歳からの射撃を挑戦的なものに変える。自分が何をしているのか認識できればそこには正当な評価が生まれ、趣味をスポーツに変革してゆく。スコープの使用は射撃の本質を変化させるものではなく、本質を認識させるものである。すなわち射撃競技が本来持ち合わせている公平性を年齢を経たものにも提供する道具がスコープサイトであると言える。

マスターズ連盟が発足してその認知が高まるとシニア年齢者のスコープ射撃が本格化していくと思われる。同時にそれらの人々による技術の伝承も今よりもまして期待でき、結果的には日本のライフル射撃全般にも貢献していくことは容易に想像できる。射撃王国で見た70歳の射手の満点はなにを物語るのかこれから立証が始まるのであろう。

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